第15回奥多摩町平和のための戦争展が開催されました

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公開日 2019年09月06日

更新日 2019年09月06日

戦争体験を語る吉野ミツ子さん

8月31日、「奥多摩町平和のための戦争展」が奥多摩文化会館で開催され、104人が集まりました。

 戦争体験者のお話をうかがう「奥多摩町平和のための戦争展」は、奥多摩町の協力のもと、今年で15回目を迎えました。東京反核医師の会の片倉和彦代表世話人が実行委員会の代表委員をつとめています。

あの時のような経験は二度としたくない

今回は山梨県丹波山村(たばやまむら)の方を含め、4人の方から戦争当時の体験をお話しいただきました。それぞれ年齢も出身も違う4人のお話のなかで、共通して挙げられていたのが「学校」「空襲」「食糧難」の問題でした。

戦時中の国民学校では教師からの鉄拳制裁が当然のように行われていたこと、「御真影(天皇の肖像写真)」に最敬礼をさせられたこと(廣瀬俊之さん)。学校は兵隊の宿舎になっていた。勉強どころではなく、藁草履を作ったり、草取りや薪拾いをさせられたこと(若林みよさん)。若林さんが学校卒業時に渡された通知表には、勉強の成績は何もなく「勤労:優」とだけ書かれていたそうです。廣瀬さんは、国民学校での経験から「生きていないもの、血の通わないものには、今でも敬礼をする気になれない」とおっしゃっていました。

 空襲では、終戦間際の7月30日夜の空襲で夢中になって逃げまわり、友人2人を亡くされた経験(吉野ミツ子さん)や、飛行機が炎上しながら富士山の方へと飛んでいくのを見た経験(原島節子さん)などが語られました。空襲を警戒して、夜には家の明かりに黒い布を巻いて光が漏れないようにしていたので、夜中に外に出ると真っ暗で不気味だったことも。

 戦中、そして終戦直後の食糧難は厳しく、米のご飯が食べられずにさつま芋を蒸かしたものや大豆を炒って食べたこと、中には飢えに追われて「さつま床(さつま芋の苗床)」を食べようした人もいたことなどが語られました。

 どの方のお話からも、「あの時のような経験は二度としたくない」という強いメッセージが感じられました。

いろんな人が話をできる場が必要

 その後、片倉代表委員から、父・片倉徹郎氏が晩年、戦死した伯父の足跡をたどる旅行に出たことや、自身の沖縄旅行で見聞きしたことについての発表が行われました。

 片倉代表委員は、沖縄について「日本の防御の要と言う人もいるが、むしろ東アジアの様々な人々と文化をつないでいく場所でないか」とし、沖縄の青年の発言を取り上げ、「現代の社会は、話をしづらい雰囲気になっているのが問題。いろんな考えの人が集まって話をできる場が必要だ」とまとめました。

 その後、相田恵美子さんから、自衛隊の駐屯地建設が始まった宮古島の現状について報告をいただき、閉会しました。