11/3第五福竜丸展示館見学会を開催

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公開日 2022年12月08日

更新日 2022年12月08日

 東京反核医師の会は11月3日、第五福竜丸展示館見集合写真学会を開催し、7人が参加しました。同施設は1954年のビキニ環礁での核実験の被害を受けた第五福竜丸を主とした展示施設で、2019年に約9カ月の改修工事を終えリニューアルオープンしました。

 当日は、第五福竜丸平和協会主任研究員の市田真理氏からレクチャーを受けました。
 1954年3月1日、アメリカ軍がビキニ環礁での核実験で爆発させた水爆「ブラボー」は広島に落とされた原爆の1000倍の威力でした。当時、第五福竜丸は爆心地から160km離れた海域で操業していましたが、爆発によって巻き上げられたサンゴの粉塵が放射能を帯びた「死の灰」となって降り注ぎ、乗組員23人全員が被曝しました。
乗組員は火傷や嘔吐、脱毛などの急性放射線症状に見舞われながら丸2週間かけて帰港しました。静岡県内では治療しきれずに東大病院に入院しましたが、半年後に無線長だった久保山愛吉氏が死去。

 事件は広島・長崎に続く第三の被爆として取り上げられました。当時まだ普及していなかったガイガーカウンターによって、漁獲された魚の全頭検査が行われ、原水爆禁止署名は3200万筆を集めました。当時の日本の人口は約8000万人ですから、約4割の国民が署名したことになります。
 しかし、日本国内での反核運動の高まりを警戒したアメリカは日本政府と交渉し、200万ドルの見舞金を日本政府に支払うことで強引に「政治決着」に持ち込みました。合意文書にはアメリカの公的責任を一切問わないとの文言も含まれており、被害者の声は日米両政府に長く黙殺されることとなりました。

 第五福竜丸はその後、放射能の減衰を待ってから、はやぶさ丸と名前を変えて東京海洋大学の練習船として10年間使用された後、1967年に廃船処分となりました。解体業者に払い下げられ、船体が「夢の島」の埋立地に放置されていましたが、そのことを知った市民の間で保存すべきとの声が挙がり、全国的な取り組みが続けられた結果、1976 年 6 月に東京都立第五福竜丸展示館の開館に至りました。「第五福竜丸は水爆実験の生き証人。実物が残っているということの説得力は大きい」と市田氏は述べました。

全国で行われた原水爆禁止署名簿 その一方で市田氏は、被害を第五福竜丸だけに矮小化されることに懸念を示し、「『第五福竜丸事件』という呼び方は適切ではない、「ビキニ事件」と呼ぶべきだ」と指摘しました。当時、第五福竜丸以外にも周辺には多くの漁船が操業していましたが、目に見えない放射線による健康被害に対して、政府は調査も補償も行っていません。さらに、「ブラボー」水爆実験の他にも、アメリカ軍はマーシャル諸島では1946~1958年にかけて、全67回の核実験を行っています。多くの地元住民が核実験のために住居を奪われ、被曝しており、今もなお故郷に戻ることができずにいます。その他にも世界中で核実験による汚染の被害、またウラン精製の際に出るゴミによる汚染などの被害が生じている。
最後にビキニ被曝船員の救済を求める訴訟が東京、高知の2地裁で行われていることを紹介。「第五福竜丸は今日も、核なき世界を目指して航海中です」と結びました。

その後、各国が行った核実験の数を記すパネルや、船内の様子や乗組員の証言映像、世界の核実験の被害当事者の証言を集めた特別展示などを見学しました。
参加者からは「以前も見学したが、世界の被爆者の展示、久保山愛吉記念碑、マグロ塚、第五福竜丸のエンジンなど展示内容も拡充され有意義だった」との感想が寄せられました。