1/28、第35回総会・記念講演会を開催しました

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公開日 2023年03月20日

更新日 2023年03月20日

 2023年1月28日、第35回東京反核医師の会総会が東京歯科保険医協会会議室で開催されました。
 総会では2022年事業報告および2023年事業計画、2022年決算・2023年予算、2023年役員が提案され、承認されました。
来賓として東友会代表理事の家島昌志氏が挨拶しました。家島氏は2022年6月21~23日にかけて開催された核兵器禁止条約第1回締約国会議に被爆者として現地参加し、被爆証言や世界の大学生を中心とした若者との対話を行ったことを報告しました。「オブザーバー参加も拒否した日本政府に対する国際社会の目は厳しい。被爆国の政府としての責務を果たすべきだ」と訴えました。

 

 総会に続き、「太平洋核実験とビキニ被ばく船員訴訟の意義」と題し記念講演が行われました。講師の濵田郁夫氏(太平洋核被災支援センター共同代表)は、元中学校教師で、ビキニ事件と関わることになったきっかけは1988年3月に発行された「ビキニの海は忘れない」(幡多高校生ゼミナール・高知県ビキニ水爆実験被災調査団編)を読んだことでした。このような調査が学生の手で行われていたこと、その内容に衝撃を受け、教職員組合の仲間とも協力し、赴任していた高知県室戸市立室戸中学校で船員たちの聞き取り調査を行いました。調査は船員の紹介を受けては訪ね、聞き取りをしてはまた紹介を受けての繰り返しだったといいます。「当時の船員の方を訪ねても、漁の話ばかりされて、なかなか本題の被曝や健康状態などの話を聞けないこともあった。しかしそのおかげで、当時の漁師たちの生活や遠洋漁業の実態、放射能への認識など、様々な要素を複合的に知ることができた」と濵田氏は述べました。
 調査のなかで、多くの船員が健康を害している実態が明らかになりました。汚染された海域に、遠洋漁業に出ていた第5良栄丸については、「乗っていた者は癌で早く死ぬ」と船員たちの間でも囁かれており、室戸市全体でも癌による死亡の割合が高くなっています。1988年6月には高知県ビキニ被災船員の会が結成され、「検診をやってもらいたい」という船員からの要求が高まり、1989年11月に、室戸岬で船員47人の検診が行われました。この検診の結果が、その後の国賠訴訟の基礎データとなっているそうです。

 

 ビキニ事件は、あたかも第五福竜丸という個別の船が「事故」に遭ったかのように語られることが多いが、この認識は意図的に作られたものだと濵田氏は指摘しました。
アメリカは広島、長崎に原爆が投下された直後から、放射能による健康への影響を過少評価する報告を行ってきました。1946年にはビキニ環礁での核実験が行われ(クロスロード作戦)、冷戦体制の中で核開発と核実験の競争が激化していきました。
 1954年、第五福竜丸の被曝と乗組員たちの健康被害が報じられると、日本国内で反核運動が盛り上がりましたが、この事態を重く見たアメリカは、日本政府との交渉に乗り出しました。1955年1月に200万ドル(約7億2000万円)の見舞金を支払うことで合意。「見舞金」という言葉には、「実験は違法なものではない」、「事前警告すれば公海上であらゆる実験を行い得る」というアメリカ側の主張も込められています。
 核保有による国際的な地位の確立を図るとともに、「原子力の平和利用」政策をも打ち出していたアメリカは、核実験の被害を徹底して隠蔽し、平和利用キャンペーンを前面に押し出しました。当初は核実験批判のスタンスをとっていた日本政府もそれに追随し、1955年から全国各地で「原子力平和利用博覧会」が開催されるなどのキャンペーン、教育への介入が行われました。
 当時、室戸では、「室戸岬船員同士会」という船員の労働組合が、反核運動や核実験反対運動を行っており、1957年のクリスマス島でのイギリスの核実験に際しては、抗議船を出すなど、運動の中心でした。
 しかし、第二組合にあたる「室戸岬漁船船員組合」が作られるなどの労組潰しの動きによって、同志会の活動は弱体化しました。「被曝の問題を口にすると魚が売れなくなる」「子どもへの影響、差別への不安」「政治的な発言をすると『アカ』と言われて船に乗れなくなる」など、複数の要因により、船員たちも口をつぐまざるを得ない状況が作られ、1965年以降ビキニ被曝問題は社会で話題にされることがなくなりました。
 こうした状況を変えたのが、1985年から始まった、学生たちによる聞き取り調査でした。「第五福竜丸の発見と保存に並び、この調査の歴史的意義は極めて大きい」と濵田氏は述べました。

 

 2016年5月、元船員・遺族が国を相手に損害賠償を求めて提訴しました(「ビキニ国賠訴訟」)。
 主な争点は、国が1954年12月31日で調査を打ち切ったこと、1955年に日米両政府が政治決着を図ったこと、政府調査船「俊鶻丸」の調査結果を葬ったこと等からなる「被曝の事実を隠し続けたこと(A型不法行為)」と、「被災事実を隠すために救済措置を行わなかったこと(B型不法行為)」の二点です。
 地裁は2018年2月、高裁は2019年12月に、「国家賠償請求権の除斥期間となる20年を経過している」ことなどを理由に、いずれも請求を棄却しましたが、一方で被曝の事実を認めたこと、救済の道を示唆したことなどの収穫もあったといいます。現在は、「船員保険法による労災保険適用を求める裁判」が東京地裁で、「日米の政治決着によって、アメリカに対して補償を求める権利が失われたことに対して損失補償を求める裁判」が高知地裁で続けられています。濵田氏は両裁判への支援を訴えました。

 

 参加者からは、「直接聞き取りを行ってきた講師ならではの、他では聞けない話が多く、大変ためになった」「組織的な運動、真実を明らかにする取り組みの重要性を痛感した」「東京にいる我々も、裁判を支援し、注視していきたい」などの感想が寄せられました。

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